田舎と都会の両方暮らし

東京自宅と茨城実家を行ったり来たりしています。長く続けた仕事も面倒くさい人間関係も、大好きだった酒も酒場も皆さよならしました。断酒して4年、色んな断捨離続けます。古く寂れた実家を片付けして、心安らぐ住まいへ再生中。都会と田舎の両方暮らしで過ごします。三人の息子は社会人になって家を出て、賑やかだった生活も今は妻と2人。静かな日々となりました。

父能研

長男の中学受験記、

もう12年前の出来事。

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お父さんの仕事の関係で、4年生の夏に茨城県から東京に引越して来ました。
 
そして秋に新聞広告に入っていた日能研オープンテストの案内を見て、「タダだから受けてみるか」という両親の勧め(命令?)により、テストを受けることになりました。
 
オープンテストの結果は散々で、あと一問間違ったら不合格というスレスレの成績で日能研に入ることができました。「ビリッケツで塾に入ってついていけるかなあ」と、その時両親は思ったそうですが、
 
僕は深く考えることもなく、「とにかく入ってみるよ」と応えました。
 
思えば、これが僕の中学受験挑戦への始まりでした。
 
一番レベルの低いクラスからのスタートでした。
 
最初は勉強の仕方がよく分からなかったのですが、授業で習った範囲の「栄冠への道」というテキストをしっかり復習すればカリキュラムテストで、ある程度の点数が取れることがわかり、だんだん勉強のコツをつかめるようになりました。
 
クラスが上がるたびに、ゲームソフトを一つ買ってくれるというお父さんの甘い言葉に釣られ、がむしゃらに勉強して5年生の終わりのころには成績上位の栄冠クラスに入ることができました。
 
嬉しくて有頂天になりましたが、その後苦しい日々が続くとは、その時は思いもしませんでした。
 
栄冠クラスに入って衝撃を受けました。いくら勉強しても成績はよくて真ん中。それどころか後ろから数えたほうが早いことがしばしばでした。国語算数のカリキュラムテストも応用問題に変わり、さっぱりできません。応用問題0点を何回も経験しました。
 
そして6年生の春。「○○くんはもう少し基礎を固めたほうがいいね」・・・クラスの降格でした。
 
しかし、クラスが下がっても成績の下落は止まりません。
 
「このままだとまた下のクラスに下がるな」・・・お父さんの言葉にショックを受けました。
 
「もう塾をやめたい」正直、思いました。
 
でも気を取り直しました。基礎を重視したクラスでの勉強は自分に合っているはずだ。めげずに基礎問題を徹底的に勉強しました。だんだん成績が上向きだしました。
 
夏季講習前に、「○○くん、栄冠クラスに上がれるレベルだけどどうする?」と先生に聞かれ、僕は迷わず栄冠クラスへの再挑戦を選びました。
 
「今度こそ栄冠クラスで頑張ってみせる」
 
この頃から僕は、ゲームソフトのためと言うよりも、中学受験のために勉強をするんだという気持ちが強くなっていったと思います。
 
2度目の栄冠クラスでもそんなに成績が伸びたというわけではありませんでした。でも、カリキュラムテストと公開テストの復習を地道に繰り返しました。
 
ほぼ毎日、日能研に通いました。塾の授業がない時は自習室で勉強しました。
 
最初の頃はわからない問題はお父さんに聞いたのですが、だんだん難しくなってくると、お父さんも「わからん」というようになったので、自習室のチューターさんに聞きまくりました。
 
自習室仲間もできて、みんなの顔を毎日自習室で見るのが日課になりました。
 
そんなこんなであっという間に受験の日がやってきました。
 
最初に受けたのは1月17日のE中です。
 
結果は不合格でした。
 
ショックで力が抜けました。でもまだ始まったばかり。落ち込んでばかりではいられないと思いました。
 
「残念だった。合格していなかった。気にするな。また頑張れ」
 
お父さんからのメールは今も携帯電話に残っています。
 
そして24日にE中に再挑戦しました。結果は合格!リベンジを果たしました。
 
「ふっ、ふっ(涙声)、合格よ!」
 
ふっ、ふっというお母さんからの電話の声が、不合格の「不」と聞こえて、「えっ、どっちなの?」と思わず聞き返してしまいました。
 
リベンジ合格ですごい自信がつきました。始めての合格を得て気合が入りました。
 
2月に入っていよいよ本番。1日にS中を受験しました。
 
S中は塾の先生にも勧められたし、家からも近い、おまけに受験番号は僕の生年月日と同じという、運命的なものを感じる学校でした。文武両道・努力主義という校風も好きでした。両親もこの学校は受かってほしいと思っているようでした。
 
でも僕は正直自信がありませんでした。問題が難しく過去問でも合格圏すれすれの点数をとるのがやっとでした。
 
プレッシャーを感じました。
 
算数の問題を最初見たとき全くわからずあせりましたが、落ち着いて考えるうちになんとか答えを書くことができました。でも不安な気持ちで夕方、発表を見にいきました。
 
すごい雨の中、僕は自分の目で掲示板を確かめました。
 
有った!合格だ!
 
母親は後ろの方でたたずんでいました。僕が笑顔で振り返ると合格とわかったようで、泣きながら走りよってきました。涙顔ですごい形相で、ちょっとコワかったです。
 
3日、いよいよ第一志望、K中への挑戦です。なんでK中なの?と、よく両親にきかれましたが正直僕もよくわかりませんでした。でもこの学校を見学に行って、とにかく入りたいと強く思ったのです。
 
センター試験を受けてもいつも「再考ゾーン」。
 
一度も合格圏内に入ったことはありませんでした。
 
でも、絶対最後まであきらめない気持ちで勉強してきました。
 
前日大変なことになってしまいました。突然熱が出てボーッとしてしまいました。
 
39度近い熱でした。おまけに足が痛くなって満足に歩けなくなりました。正直ヤバイと思いましたが、
 
「先生、お願いですから明日だけ熱を下げてください!」
 
という、病院での母親の声を聞いて、これは頑張らねばと思いました。
 
インフルエンザではないようなので、翌日の受験を決行することにしました。学校までタクシーでいけたので足が痛くてもなんとかなりました。熱は薬である程度は下がっていたようです。
 
夢中で問題を解きました。
 
最後の最後の試験で、一番苦手だった社会が一番できたと感じました。
 
やった、と思いました。
 
1次試験をクリアし、7日の面接試験にのぞみました。泣いても笑ってもこれで最後だと思いました。面接の練習は前日徹底的にやりました。お父さんが面接官の役をやってくれて何回も練習しました。
 
本番ではほとんど同じ質問が出たので、面接をクリアできたのはお父さんのおかげかなあ、と今では思ってます。
 
こうして僕は念願の第一志望校に合格することができました。
 
結果的に合格することができましたが、なぜうまくいったのか今でも不思議な気持ちです。
 
でも、合格までは絶対諦めないという気持ちを最後まで強くもったことが勝因であることは間違いないと思います。
 
塾の授業はとても楽しかった。コワい先生もいたけれど、試験当日学校まで応援にきてくれたり、お守りをくれたり、感謝の気持ちで一杯です。
 
塾に入って本当によかったです。小学校と塾と2つの学校を卒業することができて、僕はすごく得をした気分です。
 
毎日お弁当を作ってくれたお母さん、勉強の仕方を教えてくれたお父さんにも感謝感謝です。
 
僕の受験のために旅行にいくことを我慢してくれたふたりの弟にも感謝です。

中学に入っても何事にも全力、全力で頑張ろうと思います。  (2006年3月記)